絶望の淵に差す光を信じて‥
この前の日曜日、今年4月以降の弁当注文表をようやくファイルに綴じることができました。A4ファイル1冊に2か月分を閉じることができておりましたが、最近は1か月でパツン、パツンになります。一枚一枚ファイルに綴じていきましたが、改めてこれほど多くのお客様に支えられていることに気付き、感謝の念で一杯になります。大規模な給食会社とは異なり、一軒、一軒お届けする食数は少ない反面、メニューが多いため、それを作る労は非常に大きいものがあります。私は、そのニッチなところがご評価いただいている要因の一つだと思っています。飲食業は決して平坦ではありません。流行り廃りが目まぐるしい弱肉強食の業界です。うららかな風の弁当がいつまでも愛され続けるよう、これからも励んでいきます。
『「おふくろさん」涙の熱唱の理由 ~歌手・森進一さん』
幸運は思わぬところからやってくるもので、新人作曲家の猪俣公章さんの曲を売り込むためのそのデモテープが、私のレコードデビューにもつながることになったのです。ビクターに持ち込まれたそのテープが流れると、「曲もいいが、これを唄っているやつもおもしろいじゃないか」となったわけです。私は十八歳でした。
デビュー曲「女のためいき」は、おかげさまで大ヒットになりました。NHKの紅白歌合戦に出場できたのはデビュー三年目でした。本当にうれしかった。これでなんとか自分のポジションをつかむことができたと思いました。家族を東京に呼んで、一緒に暮らせるかもしれない。やっとそんな気持ちになれたのは、あのときでした。翌年、念願かなって母と妹弟を呼び寄せ、借家ながらも東京での一家そろっての生活をスタートさせることができました。母にはこれまで苦労した分を取り返してもらおう。私たち家族の本当の生活はこれから始まる──そんな喜びでいっぱいでした。
しかし、その生活が母の大きな負担になるなどとは、夢にも思わないことでした。母は長い苦労のせいでリウマチを患い、東京の水にも慣れにくかったのか、精神的にも不安定になっていました。私と恋愛関係にあり結婚も約束していたという女性が現れ、裁判になったことも、母の心をさらに不安定にさせたようでした。もちろん、私自身にはまったく身に覚えのない訴えで、裁判でも正当な決着がつけられたのですが、その間のマスコミ騒動が母には耐えられなかったのかもしれません。母が自らの命を絶ったのは、一緒に暮らせるようになって、わずか二年後のことでした。
私はその知らせを公演先の長崎で聞きました。底無しの沼にどこまでも沈み込んでいくような、頭の芯がしんしんと冷え込んでいくような、それでいて胸をかきむしって叫びたいような、あのときの気持ちをどう表現すればいいのか分かりません。けれど、東京に戻るわけにはいきません。私の歌を待っていてくださるお客様がいます。
その日のコンサートで泣きながら唄った「おふくろさん」は、それ以来、母の命、そして私の命を込めた「おふくろさん」になりました。もっともっと親孝行したいと思っていた矢先に母を失った衝撃は、私にとって例えようもなく大きなものでした。悲しさ、悔しさ、無念さが入りまじり、無気力な日々が続きました。けれど私には妹と弟がいました。妹には幸せな結婚をさせて、弟は医者にする。それが母の望みでした。弟は病身の母を見ながら育ち、「人さまのお役に立つ人になるんだよ」と口癖のように言っていた母の言葉を聞き、医師を志望するようになったのです。妹と弟の存在がようやく私を支えてくれたのでした―――。