自分だけの『プラス1』を探しなさい
うららかな風の弁当に使用しているご飯は、新市町常金丸の農家様から直接購入しておりました。しかしうららかな風の米の使用量が増加し、今年2月には販売して頂けるお米が枯渇し、同じ新市町のお米屋さんから購入するようになりました。昨日、米の買い付けのためいつも通りお米屋さんにアポイントの連絡をすると、「今回の4俵で最後です。お渡しできる米はもうありません」との返答。米がなくては弁当屋はできませんので、前触れなく急転直下の話に青ざめました。新聞などでコメ不足と報道されていますが、昨年の猛暑によるコメの不良による収穫量の減少、コロナから回復したことによる消費の拡大などもあり、流通する米が少なくなっているようです。いま手を尽くして、購入先を探しております。不安に感じる内容を書いてしまいましたが、必ずお米は用立てますのでどうかご安心ください!
今日は利用者様お二人と久々にのり弁当を作りました。かつては定番メニューだったこともあり、たくさんの「のり弁」を作ってきましたので、体が憶えており指示書を見なくても作ることができます。利用者様も戸惑うことなく、手際よく作業を進めてくれました。やるじゃん!うららかな風ののり弁は手作りです。おかかたっぷり、大きな白身魚のフライがドンとのったのり弁をぜひご賞味ください!
『道なき道をひらいてきた女性リーダー 井村屋・中村伸子』
中島さんは23歳の時に、経理事務のアルバイトとして井村屋の福井営業所に入社、2年後に正社員登用となります。女性が営業職に就くことすらまだ珍しかった時代で、不平等な扱いを受けることもありながら、持ち前の「開き直り精神」「しぶとさ、打たれ強さ」「前向きにチャレンジする姿勢」でどんどん引き上げられ、経営トップに抜擢されました。
原点にあるのは、死者30名、負傷者700名の大惨事となった北陸トンネル列車火災事故に、20歳を迎える2日前に巻き込まれたことです。ご自身は九死に一生を得たものの、たまたま同じボックス席に居合わせた若い母親と3人の男の子の命を助けられなかったことへの後悔、一酸化炭素中毒の後遺症で声が出なくなり、夢だった教師の道を断念せざるを得なかったことへの無念から人生に絶望してしまいます。
私自身、一酸化炭素中毒で声帯が麻痺して声が出なくなり、3か月入院しました。最初に喉から煤の塊が出てきた時は驚きでしたよ。声を使う仕事は諦めたほうがいいと医者に言われ、教師の道を断念せざるを得なかったんです。自分の行き先がある日突然プチッと切れてしまった。少しずつかすれ声は出るようになりましたが、退院して3~4か月は実家で療養しながら何もせずにぶらぶら過ごしていました。ある時、父が手紙をくれましてね。こう書かれていました。
「君は自分の人生をどうするんだ。声が出なくても立派に生きている人はたくさんいる。声が出ないことを気にするんだったら、自分だけの〝プラス1〟を探しなさい。それがあれば必ず人の役に立つ。〝辛い〟という字に一本足せば、〝幸せ〟という字になる。それを忘れずに一所懸命生きていくことが亡くなった人への恩返しであり使命ではないか」
この手紙は非常に心に残っていて、アルバムに貼っていまでも大切に持っています。当時の私は、あのお母さんから託された子供の命を救えなかった後悔や事故の後遺症で教師の夢を絶たれた無念に苛さいなまれ、この辛い気持ちをどうしたらいいか分からない、誰かに救ってほしいという未熟さがあったんですね。父の言葉が何にも代えがたい心の支えになり、それをきっかけに立ち直っていきました。
短大を卒業後、すぐに結婚し、声をあまり使わなくてもできる仕事をと思って始めたのが、井村屋の福井営業所での経理事務のアルバイト。経理は未経験だったので、夜間学校に通って勉強しましたし、電話番はできない代わりに、配達でもトイレ掃除でも何でもしますと言って、4トントラックの免許を取得して運転したりもしました。その時に「ああ、そうか。 仕事に貴賤はない。必要だからその仕事が存在している。どんな仕事でも一所懸命やろう」と思ったんです。そこに、父から言われた「プラス1」を足せばきっと私らしい仕事ができると。そういう中で、カップアイスの蓋を開けやすくする改善提案をしたところ、これが採用されて賞をもらいました。バイトでも分け隔てなく表彰してくれる社風に感動しましてね。学校の先生になりたいという未練を捨て、社員登用試験を受けて正社員になったんです―――。