心の「闇」に気づくとき、既に「光」は射している

おはようございます。インフルエンザの流行期に入りました。体調管理に努めてください。本日15時30分にビジネス情報様の取材があります。久しぶりで、柄にもなく少し緊張しています。
1987年10月19日、あの月曜日は「ブラックマンデー」と呼ばれ、世界的な株価暴落が起こりました。辞書を引くと「暗黒の月曜日」とあります。「ブラック」という言葉には、「ブラック企業」「ブラックリスト」のように、あまり良い意味で使われない、影や闇のイメージがつきまといます。闇、不吉、見えないもの。私たちは、人の目に触れさせたくないものを「闇」に葬ろうとします。しかし、私はふと、この「闇」の存在こそが、私たちにとって最も重要な「光」を教えてくれるのではないか、と考えました。
あるお寺の和尚様の言葉に、心打たれるものがありました。松の木の下で、「松影のくらきは月の光かな」という句を引用した上で、和尚様はこう仰ったそうです。
「松の影さえ見えりゃ、シメタもんじゃわなア」
本当に真っ暗闇の中では、松の影も見えません。影が見えるのは、そこに月という「光」が当たっている証拠です。影とは、光がなければ存在しないものなのです。これは、私たちの心についても同じではないでしょうか。人の心の中には、貪り、怒り、妬み、無知といった、愚かで暗い心が潜んでいます。これが私たちの「闇」です。本当にすべてが真っ暗で無自覚な状態、すなわち「無知」の中にいるとき、私たちは自分の愚かさ、欠点に気づくことさえできません。しかし、「松の影が見えた」とき、つまり、自分の中の「闇」に気づいた瞬間、それは既に「光」が射し始めているということです。自らの欠点や心の闇に気がつくこと。それこそが、私たちが人間として「進歩している証」なのです。


