頼ってくる人々を見捨ない!

 うららかな風の屋台骨である調理業務を担う二人は、朝早い時間から勤務をスタートしてくれています。朝礼を終え、8時50分過ぎに始まる盛り付けや、その後の弁当配達が遅くならないよう配慮してくれ、まだ夜の明けない早朝に出勤されているのです。ご家庭のこともあるでしょうに、後ろ髪を引かれる思いを振り切り、早朝の業務に取り掛かかられます。

 私が朝の送迎を終えて調理室に入ると、当たり前のように出来上がったばかりのおかずが湯気を立てて並べられています。炊き立てのご飯のおいしそうな匂いが漂っています。これが当たり前ではありません。みんなが来るよりもっと早くに準備を進めてくれている二人のお陰なのです。本当に頭が下がりますし、感謝しかありません。

 盛付中、私は時に鬼になります。おしゃべりばかりしていたり、雑に扱われたりすると、ついついムキになって利用者様に対してきつい言葉をかけてしまいます。二人の努力が水泡となってしまいそうだからです。

 私の檄にもめげることなく、歯を食いしばって切磋琢磨してくれています。そして、確実に成長されています。その姿を見ると、うれしくて私の目が細くなるばかりです。うららかな風に集うみんなと一緒に福山で一番おいしいお弁当を作れることができることに、誇りと幸せと感謝を感じつつ、今日も、そして明日も、さらにその先も、汗を流し続けます。

「六千人のユダヤ人を救った“命のビザ”発給秘話」 杉原幸子(歌人)

 夫(杉原千畝)はいいました。

 「私は外務省に背いて、領事の権限でビザを発給するよ。いいだろう?」

 「そうしてください。でも、私たちはどうなるのかしら」

 「ナチスから問題にされるかもしれないが、家族にまでは手を出さないだろう。外務省にはとがめられるだろうが、そのときはそのときだ」

 それは夫の覚悟の表明でした。夫は近くのソ連領事館に出かけていきました。ビザを発給したユダヤ人たちが日本までソ連領を無事通っていけるよう、交渉に行ったのです。交渉は成功でした。ソ連の領事は夫の巧みなロシア語にすっかり胸襟を開き、ユダヤ人たちのソ連領通過の安全を保障してくれたということです。

 「ビザを発給します。間違いなく出しますから、順序よく並んでください」

 夫がそう告げたときの人々の喜びようはありませんでした。

 それからほぼ一か月、夫の奮闘は続きました。朝、階下の事務所に下りていくと、夫は夜まで上には上がってきませんでした。ビザを求めるユダヤ人は次から次へと列をつくって待っています。昼食をとっている暇はないのです。夫は睡眠不足で目は赤く充血し、痩せて顔付きまで変わりました。ビザを書きまくる右腕は硬直して痛み、毎晩その腕をもむのが、私の役目になりました。しかし、休むわけにはいきません。ソ連からの領事館退去要請は切迫しています。夫がビザの発給を続けたのは、八月二十八日まででした。もうそれ以上は持ちこたえられませんでした。  

 私たちはあわただしく荷物をまとめ、機密書類は焼却して領事館を出、ホテルに避難しました。そのホテルにも、まだビザを手にしていないユダヤ人はやってきました。ソ連の勧告ぎりぎりまで夫は正式なビザに代わる日本通過の許可証を、ホテルで出し続けました。私たちはカウナス駅からベルリン国際列車に乗りました。そのホームにもユダヤ人たちはやってきました。夫は発車間際まで汽車の窓から許可証を書きました。発車の時間は来ました。

 「許してください。もう時間がありません。皆さんのご無事を祈ります」。

 私たちを乗せた列車は走りだしました。すると、そこに集まっていた人々から、声が上がったのです。

 「スギハァラ、私たちはあなたのことを忘れません」。

 人々は泣きながら手を振りました。

 「あなた、よかったわね。あなたは素晴らしいことをしたんだわ」

 私が言うと、夫はこう答えました。

 「いや、私は当たり前のことを当たり前にやっただけだよ」

 それから、一語一語かみしめるように言いました。

 「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ、私は神に背く」。