はなの作ってくれるみそ汁が僕を助けてくれた‥

 車の温度計は38度。本当に暑い一日でした。しびれました。福山市立向丘中学校のチャレンジウィーク3日目、最終日でした。二人の生徒さんたちもすっかりうららかな風の一員となり、就労継続支援の利用者様と一緒に弁当を作るのも板についてきました。今日の作業ですが、一人はホルモン焼きそば、一人はおにぎりセットを作ってもらいました。関心なのは、臆することなく、黙々と、きちんと作ってくれるんです。うららかな風にスカウトしたいくらい、すばらしい仕事ぶりでした。

 終了後に感想を聞くと、「立ち仕事は慣れてないので足がしんどかったけど、弁当作りはとても楽しかった。必ず、お弁当を買いに来ますね(笑)」と言ってくれたんです。うれしい言葉‥二人とも、ありがとうございました。残り僅かになりましたが、どうか有意義な夏休みをお過ごしください。

『はなちゃんに伝えたかった「生きていく力」』

 一人娘のはなが台所に立ち、みそ汁をつくり始めたのは、2008年2月20日の5歳の誕生日でした。妻の千恵は、はなの4歳の誕生日にエプロンと包丁をプレゼントし、それから1年間、包丁の使い方や調理の段取りを教え、一緒に朝食のみそ汁をつくりました。しかし、5歳を迎えたのをきっかけとして、千恵は一切口出しすることをやめ、鰹節を削って出汁をとるところからすべてをはなに任せたのです。末期がんだった千恵には「はなが一人でも生きていけるように」という思いがあったのでしょう。

 はなもまた、千恵との約束通りに毎朝、台所に立ち続けました。千恵の乳がんが判明したのは2000年7月。手術や抗がん剤治療で一度はよくなったものの、はなが生まれて間もなく再発。やがて全身に転移し、主治医からも手術は不可能と言われる状態でした。2008年春の大型連休を過ぎた頃から体調が急激に悪化したことを思うと、みそ汁づくりをすべてはなに任せたのは、すでに自分の死を予感していたからなのかもしれません。6月には「もって1か月」と余命宣告を受け、翌7月11日、ちょうどがん宣告を受けた同じ日に33歳の生涯を閉じるのです。

 千恵がはなにみそ汁づくりを教えたのは、自らの死期を意識していたことともう一つ、幼い娘に『自分の役割』を持たせたかったのではないでしょうか。つまり、自分の役割を持った娘は、親に感謝されることで『自分は家族に必要とされている』ことを実感できるようになります。それは『生まれてきて良かった』と、自分の生を肯定することにもつながります。その自己肯定感こそが、これからの長い人生、困難を乗り越えて生きていくための大きな力になっていくわけです。みそ汁づくりを通じて千恵がはなに伝えたかったのはレシピだけではなく『生きていくための力』。ちゃんとご飯を炊いてみそ汁を作ることができれば生きていける。千恵は自分がずっとそばにいてやれないことを薄々感じていたからこそ、心を鬼にして、はなを台所に立たせたのだと思います。

 はながまだ小学生の頃、インタビューで『はなちゃんはなぜ、毎日おみそ汁を作るの?』と聞かれた時、『パパが笑ってくれるから』と答えたことがあります。あの頃の僕は、千恵が旅立ってから深い喪失感でうつ状態が続いていました。はなのみそ汁つくりが、生きる意味すら失っていた僕を助けてくれたんです―――。