ローソクが燃え尽きるまで‥

 夜が明けるのが本当に早くなりました。朝4時すぎ、少し夜空が白んでいます。真っ暗だと頭もシャキッとしないのですが、明るくなると頭はクリアで、体もすごく楽です。一日が長いこの時期は、天からご褒美を頂いた気持になります。ありがたいことです。

 本日は、昨日に引き続き利用者様と焼きさば寿司を作りました。利用者様と二人で30個を作るのが私たちのノルマ。つまり一人15個作れば良い‥と高を括っていました。一時間で15個作ろうとすると4分で仕上げなければなりません。

「案外、時間がない…」

 嘆いても仕方ありません。私たちの使命を果たすのみ。お互い一切語らず、黙々と作り続けました。途中、これは間に合いそうにない‥と諦めたくなる気持ちが湧いてきましたが、利用者さん頑張る姿に発奮、定刻10時に無事に完成させることができました。

 ブラボー!

 焼きさば寿司はメニューに載せるたびに注文が増えています。そろそろ注文を限定する日が近いかもしれません。今がチャンス!いまのうちにぜひ一度ご賞味ください。

 

 永井隆の代表作『長崎の鐘』は、原爆被災の昭和20年8月9日から、勤務していた長崎医科大学で自ら右側頸動脈切断という重傷を負いながらも救護活動に奔走し、原子爆弾、原子病、療法の研究、一坪のバラック住まい、浦上教会合同慰霊祭、そして、昭和20年のクリスマスの夜のミサに浦上天主堂の聖鐘がふたたび鳴り始めるまでの生々しい体験記録といっても過言ではありません。

 妻・緑さんは全焼した上野町の自宅から遺骨となって発見されました。2人の子供は疎開していて被爆を免れたものの、死の淵にたたされた重傷患者でありながら、被災者の治療と敬虔なカトリック信徒としてその復興に挺身した男やもめの日々は、それはもう凄絶の一語に尽きます。自ら被爆し愛妻を焼かれ、なおかつ医者として多数の被爆患者を治療した永井隆のこの『長崎の鐘』 は、その後数多く出された長崎の証言の第一に挙げられました。その新鮮な文章力で淡々と綴る、たくましい人間愛の物語は、欧米数か国に翻訳されて世界的反響を呼んだのです。映画にもなり、歌謡曲としても広まり、虚脱した長崎の人々の心に救いの光を与えたのです。

 昭和21年8月には3回目の発作で倒れ、病床に伏してしまいます。白血球18万、赤血球は229万まで極度に減少していました。そこへ、友人である片岡弥吉さん(『永井隆の生涯』の著者)が恐る恐る見舞いに訪ねてきました。長時間にわたって絵を描いていた彼は、もう絵筆がとれないほどに衰弱しています。そして片岡さんの心配そうな顔をローソクの向こうに見るとニッコリとしていうのです。

「何枚かは私が描きましたが、もう描けなくなりましたので弟に描いてもらっとります。説明は吉田さんに口述しています。一所懸命ですばい」

 片岡さんはびっくりして必死の声で諭します。

「あんたは重病人じゃないか。こんな無理をしたら死んでしまいますよ」

「死にかけとります。しかし、描いても死にます。描かんでも死にます」

 それから、ローソクの灯に目をやりながら語りました。

「このローソクの灯が、まさに燃えきれようとしている時、君はあらあら、燃えきれるといって仕事も手につかないでいますか。あるいは灯のともっている限りは仕事をしますか。どちらです? 私の生命の灯は、燃え尽きようとしている。あなたがたも、あらあらと騒ぐより、生命の灯の続く限り、私に仕事をさせていいではありませんか」

 これが永井隆の平和にかけた情熱と信条だったのです。