エブリデイ・マイ・ラスト

 午前は、とりの照りマヨ丼の盛り付け、その後は水呑~田尻~鞆~沼隈~水呑の沼隈半島を一周する弁当配達、さらに午後からは洗車、続けて弁当箱の回収、最後の利用者様の帰りの送迎まで息つく暇もない一日でした。ここの所、晴れ間が少なかったこともあり洗車ができておらず汚れておりましたので、利用者様3人と泡まみれながら、ゴシゴシ洗車して、ピカピカになりました。利用者様にシャンプーの泡を落とすためホースで水洗いをお願いしたのですが、強風にあおられた水が狙ったかのよう私にかかり、ビシャビシャになりました。あたたかな太陽の日差しのせいか、気持ちさを感じました。利用者様と弁当作り以外の作業をするのも楽しいですね。また天気の良い日に一緒に洗車しようね!

 センバツ高校野球は連日熱戦が繰り広げられていますが、明日はいよいよ準決勝を迎えます。球児たちには三者三様のドラマがありますが、かつて突然の悲劇に見舞われた高校球児の話を紹介させてください。

 忘れもしない、あの事故が起こったのは、私(福嶋正信氏)が野球班(部)監督として東京都立小山台高校に赴任し、2年ほど経った2006年6月3日のことでした。

 「福嶋先生、夏の大会も一か月に迫ったので新しいバットを買いに行きたいのですが、大輔も連れていっていいですか?」

 市川大輔は、当時2年生唯一のレギュラー。派手さはないけれど、何事にもコツコツと一所懸命に取り組む、誰からも信頼される選手でした。私は、「いいぞ、大輔も先輩といっしょに行ってこいよ」と、練習が終わった後に、子供たちを近くのスポーツ店に送り出したのです。

 しかし、それが大輔との今生の別れになるとは、夢にも思いませんでした。皆で購入したバットを手に帰宅の途に就いた大輔は、自宅マンションに設置されていたシンドラー社製のエレベーターに挟まれる事故に遭い、帰らぬ人となったのです。大輔は手にバットを握り締めたまま亡くなっていたといいます。

 あの時、大輔を買いに行かせなかったなら……。事故後、私も生徒たちも、大輔のことが悔しくて、悲しくて、大粒の涙が止めどなく溢れ、練習することさえままなりませんでした。そんな私たちに、再び前を向いて一歩を踏み出す力を与えてくれたのが、大輔のお母さんから届いた、

 「皆さん、悲しい顔で練習をしていたら大輔が泣きます。だから笑顔で練習してくださいね」というお手紙。そして大輔が野球日誌に書き残した次のような言葉の数々でした。

「当たり前のことを当たり前にやる。でもそれが難しい」

「一分一秒を悔いのないように生きる。精いっぱい生きる」

「エブリ デイ マイ ラスト」

 泣いていてはいけない、大輔のためにも笑顔でプレーしよう、毎日を精いっぱい生き、絶対に甲子園にいこう 。小山台は都内有数の進学校で、練習スペースも時間も限られており、甲子園はおろか上位進出さえ難しいのが現実でしたが、大輔の事故をきっかけにして、チームとしての絆が深まり、必死に練習に励むようになったのです。

 そして、2014年の春、「二十一世紀枠」に小山台が都立として初選出されたのです―――。