詫びても、詫びても償いきれぬ思い 佐伯敏子さん

 いよいよ今日から夏の甲子園が開幕します。どんな感動的な試合が待っているのでしょうか。ワクワクしますね。そして、今日は二十四節気の「立秋」を迎えました。立秋は二十四節気のなかでも特に大切な「八節」の一つです。夏至と冬至を「二至」、春分と秋分を「二分」、そしてそれぞれの中間に存在する立春・立夏・立秋・立冬の「四立(しりゅう)」。これらをあわせて「八節」と呼び、季節を区分する言葉として古くから日本において重要な役割を果たしてきました。立秋は秋の始まり。夏の暑さが極まり、秋に向け季節が移り変わり始める日という意味です。暦のうえでは立秋が夏の暑さのピークであるとされ、立秋の翌日からの暑さは「残暑」と呼ばれます。盆を境に季節が進むことを期待しつつ‥。

 今日は利用者様三人と特別メニュー『金沢カレー』の盛り付けを行いました。金沢カレーには(1)~(5)までの定義があります。弁当ですので、ステンレスのお皿に盛り付けることはできませんでしたが、金沢カレー協会の定めた通り、金沢カレーを忠実に再現しました。目新しさもあってか、今日は本当にたくさんのご注文を頂戴しました。完成したのは、配達時間ギリギリ。そのため、写真を撮り取り忘れてました。ざ、ざ、残念‥。

【金沢カレー協会が定める金沢カレーの定義】
 (1)ルーは濃厚でドロッとしている。
 (2)付け合わせとしてキャベツの千切りが載っている。
 (3)ステンレスの皿に盛られている。
 (4)フォークまたは先割れスプーンで食べる。
 (5)ルーの上にカツを載せ、その上にはソースがかかっている。

『広島の原爆供養塔を 一生涯ほうきで掃き続けた 佐伯敏子さん』

 深い傷を負った広島の平和記念公園内に、引き取り手がない遺骨を納めた原爆供養塔があることをご存じでしょうか。その塔の掃除を、40年以上にわたって続けられた人がいます。佐伯敏子さんです―――。

 この掃除を私が始めてから、もう40年になります。広島市がこの塔をつくったのが、戦後10年ほど経ってからでしたから、なるほど40年以上になるわけです。そもそも私が原爆供養塔の掃除を始めたのは、それは昭和20年8月6日にさかのぼります。その朝、私は広島市から山を1つ越えた田舎の姉の嫁ぎ先にいました。敵か味方か、山の上を飛行機が1機飛んできて、すぐに引き返すのが見えました。そのときです。山の向こう、広島のほうの空を異様な光が焦がしたのです。間もなく大音響がして、熱気を帯びた空気に包まれました。気がつくと、広島のほうにもくもくと煙が立ちのぼっています。空が曇り、黒い大粒の雨が降ってきました。

「広島がやられた」

 私は広島に住む家族、母や兄妹たちのことを思いました。……その思いに急かされて、私は山を越え、広島にもどったのです。そこで見たものの1つひとつは、いまでも鮮明です。忘れようとして、忘れられるものではありません。生き地獄。いいえ、そんな生易しい言葉で表現できるものではありません。私は家族の姿を求めて歩き回りました。ふと、死体のように横たわっていた人がむくりと動いて、私の足首をつかみました。私はそれを振り切って進みました。「助けて」「水を」と動けなくなった人たちの呼びかける声に耳をふさいで通りすぎました。どこが道かもわからないままに、死骸を踏みつけて歩きました。あのとき、自分に何ができたろうかと思います。何もできなかったでしょう。でも、私が助けを求める何人かの人を見捨てたことも事実です。私の抱く後ろめたさとはそのことです。原爆供養塔には、私が見捨て、無視して通りすぎた人たちの遺骨が、納まっているかもしれないのです。

「ごめんなさい」 「すみませんでした」

 詫びても、詫びても償いきれるものではありません。ですが、習わぬお経を唱えながら、ホウキで掃き、草を1本1本むしらずにはいられないのです。そうして、40年以上が過ぎたということです。