配達できるときに配達しておくがいい

 昨日は日曜日。晴天で、暖かい日になりましたので、花見に出かけられた方も多かったのではないでしょうか?かくいう私も、娘と近所にある水呑川の土手の桜並木まで手をつないで散歩をしました。春休みの間、旅行に連れて行くことも叶わず、申し訳ない思いを感じつつも、満開のソメイヨシノを見上げながら最愛の娘と散歩できる時間は、我が人生至福の時と言っても過言ではありませんでした。明日は小学校の始業式で、小学校5年生に進級します。そろそろオヤジのことを煩わしく思う年頃になります。鬼が笑うかもしれませんが、来年の今頃は一緒に手をつないでくれないのではないか‥と早くも心臓がバクバクです。

 この春休み期間中、たくさんのお弁当のご注文をいただきました。春季講座で忙しくされている塾の先生のもとへ、春休みで留守番中のお子さんのもとへ、給食がストップする小学校や中学校の先生のもとへ‥それも今日で終わりです。明日からは通常モードになります。気持ちを切り替え、明日から、「もっと、もっと、もっと一個入魂」の精神で、利用者様と美味しいお弁当作りに励みます。

なにかおれも配達しているつもりで
今日まで生きて来たのだが
人々の心になにかを配達するのが
おれの仕事なのだが
この少年のように 
ひたむきに 
おれはなにを配達しているだろうか

お早う けなげな少年よ
君は確実に配達できるのだ
少年の君はそれを知らないで配達している
知らないから配達できるのか

配達できるときに配達しておくがいい

 小説作家であり、詩人でもある高見順さんは、この詩をガンと闘う病床のなかでつくりました。毎朝、同じ時間にきちんと新聞を配達してくれる少年をたたえてうたいながら、その反面自分は今日まで生きていながら、何を配達してきたのだろうか?と振り返ります。

 私たちは知らない間に、気づかないうちにどれほど多くの配達を受けていることでしょうか。何らお礼をしたり、報いたりしないで配達されたものをいただいている。いつでも、どこでも、だれにでも、何かを配達できる人間、配達している人になりたい・・・。高見順さんは病の中で、配達したくてもできない自分をさびしく思いながら若い人々に語りかけています。

『配達できるときに配達しておくがいい』