逆境を宝に変える――「煙たい人」は人生を浄化する最高の教師である

人生を歩む中で、私たちは避けて通れない「理不尽な苦しみ」や「苦手な存在」に出会うことがあります。私自身、20年近く医療・福祉の現場で身を粉にして働き、組織を大きく成長させることに心血を注いできました。しかし、代替わりという転機の中で、信奉していた組織から辛辣な攻撃を受け、去らざるを得ないという経験をしました。
当時は精神的にも非常に過酷な時期でしたが、今、自ら障がい福祉の事業を立ち上げ、新たな仲間と共に歩む中で、仏教の教えにある「逆境の真意」を深く噛みしめています。
苦しみは「過去の執着」を浄化するプロセス
『金剛経』や『菩薩願行文』には、人から罵られたり辱められたりすることは、実は過去から積み重ねてきた「負の業(カルマ)」を消し去る尊い過程であると説かれています。
「何を言われても何をされても頭を下げて、むしろ拝んで言葉を丁重にしてへりくだってゆけば、私たちの心に蓮の花が花開き‥どこもかしこもそこが浄土になり、どこにいてもそこに仏さまの光明が光り輝きます。」(『菩薩願行文』より)
理不尽な攻撃を受けたとき、それを「自分を磨き、過去を清算する機会」と捉え直すことで、心に刺さった棘は、自分を成長させるための栄養へと変わります。
苦難の中にこそ見出せる「忍耐」と「慈悲」
ダライ・ラマ法王が説かれるように、苦しみは単なる重荷ではなく、私たちを助けてくれる貴重な機会となります。
まず、「忍耐の完成」という視点です。私たちは優しい人々や穏やかな環境に囲まれているだけでは、本当の意味での強い心、すなわち「忍耐(忍辱)」を育てることはできません。自分を苦しめる存在がいて初めて、私たちは自らの感情を制御し、揺るがない心を養う修行ができるのです。
また、自らが深い痛みや絶望を経験することは、「慈悲の芽生え」へと繋がります。苦悩の渦中に身を置くことで、同じように苦しんでいる他者の痛みを、理屈ではなく実感として推し量れるようになるからです。その経験が、「彼らのために何か手助けをしたい」という、私利私欲を超えた真の奉仕の意欲を呼び起こしてくれます。
私を攻撃した人々は、私にこうした「忍耐」という最も難しい修行を授けてくれた砥石であり、新しい世界へ踏み出すための一押しをくれた「逆縁の恩人」であったと、今では心から感謝しています。
泥の中にこそ、美しい蓮は咲く
20年間の経験は無駄ではありませんでした。当時の苦労があったからこそ、現在の経営において直面する「四苦八苦」にも動じず、多くの支援や仲間に恵まれる今の私があります。
泥沼のような苦しい環境がなければ、蓮の花(悟りや成功)は咲きません。 もし今、あなたが人間関係や環境に苦しんでいるのなら、それはあなたの心に「蓮の花」が咲く直前の、大切な準備期間なのかもしれません。
今の苦難を「浄化の機会」と捉え、言葉を丁寧に、謙虚に歩み続けていく。その先に、必ずあなただけの輝かしい浄土が広がっているはずです。

