積み重ね つみ重ねても またつみかさね

 昨日は台風のような強風が吹き、満開のばらの花が散ってしまいました。祭りを前に花壇の手入れをされるスタッフ、ボランティアの皆様が花びらを拾い集める姿を見かけました。皆様の労に感謝です。いよいよ明日、ばら祭りが開幕します。ぜひ皆さんも、市内のあちこちで催されるイベントに足を運んでみてください。祭りに参加できない方は、市内の至る所で咲いているばらを散策してみてはいかがでしょうか。今年のばらは色合いも良く、とっても美しいです。

 昨日に続き、本日もたくさんの注文を頂戴しました。本当にありがたいことです。今日は利用者様二人と、特別メニューのカフェードリアを作りました。二人ともドリアやグラタンを作るのが初めてで、普段と勝手が違ったのか、スムーズに作業を進めることができません。さすがに今日は間に合わない‥と感じておりましたが、ベーグルチームの作業が早めに終わり私たちのサポートをしてくれたため、定刻に間に合わせることができました。今日ばかりは、肝を冷やしました。

 名古屋テレビ塔、大阪通天閣、東京タワー。各地で名物として親しまれるこれらの構造設計を一手に引き受けたのが、「日本の耐震建築の父」であり、「塔博士」の異名を持つ建築家・内藤多仲(ないとう たちゅう)です。

 1957年(昭和32年)、東京タワーの設計者として白羽の矢が立ちます。産経新聞社社長で、時の国会議員だった前田久吉から、「エッフェル塔の320メートルを凌ぐ世界一高い電波塔ができないか」と要望があったのです。地震と台風が多発し、敗戦から立ち直り切っていない日本で、そんなことが可能なのか。

 関係者の誰もが心配しましたが、「鉄塔造りは、私に課せられた宿縁」と快諾するのです。この時、70歳。45年間勤めた早稲田大学を退職し、名誉教授となったばかりでした。すぐさま基本設計に入り、同時に二人の教え子に声をかけ、共に構想を練っていきます。前例のないタワーであり、膨大な計算が必要でした。驚くべきことの一つは、それを電卓やコンピュータではなく、恩師の佐野先生にもらった小さな計算尺を使ってすべて自分の手で行いました。

 東京タワーに求められる役割は、テレビ局が増え電波が錯綜する時代に、関東一円に安定したテレビ電波を流すこと。そのためには前例のない高さの塔を建て、同時に揺れを最低限に抑える必要がありました。加えて、戦後間もない東京で鉄を大量に揃えるのは大変難しかったのです。これではタワーがつくれません。そこで内藤が打ち出したのは、過去に地震や台風を乗り切った塔の構造を踏まえ、鉄をエッフェル塔の半分以下にする案でした。教え子たちが驚く中、様々な揺れや風に耐え得る部材の強度を割り出すべく膨大な計算に入ります。耐震構造理論を打ち立て、知悉(ちしつ)していたからできた提案でした。

 当初はアンテナも含めた高さは380メートルと予定されていましたが、それでは先端のアンテナが揺れすぎるため、結果として誰もが知る現在の333メートルの高さに落ち着きました。設計はやり直しとなり、描かれた図面は3か月で1万枚に及んでいます。そうして1958年、多くの人が待ち望んだ夢のタワーが完成したのでした。

  ~~ 積み重ね つみ重ねても またつみかさね ~~

 84年の天寿を全うした内藤が晩年したためた揮毫(きごう)には、彼が刻んできた生き方が表れているようです。