理想と現実の狭間で ― 弁当作りの煙に巻かれて

2022年11月。私は強い信念を持って、障がい福祉事業を立ち上げました。「この方々を一生お支えするために、自分の生涯を捧げよう」 そう心に誓い、走り出してから3年が経ちます。
しかし、最近の私は、自分自身の心に芽生えたある「恐怖」に震えています。 あんなに燃えていたはずの思いが、日々の忙しさの中で、少しずつ薄らいでいくのを感じるからです。
理想とはほど遠い、厨房の私
私たちの事業所では、利用者様と共にお弁当作りに励んでいます。 注文がピークを迎え、時間に追われる戦場のような調理室で、私はいつの間にか「一人の人間」としての彼らを見失ってしまうことがあります。
個性を重んじるはずが、つい厳しい口調で指示を飛ばしてしまう。 何かを訴えかけようと、私をじっと見つめる利用者様の視線に気づきながら、「今は忙しいから」と知らぬ顔をしてしまう。
そのたびに、胸の奥がチクリと痛みます。
「彼らを支えることが、私の何よりも優先すべき役割ではないのか」
「こんな自分に、福祉に携わる資質などあるのだろうか」
「三つの力」を問い直す
ある本に「三つの力」という教えがありました。 生きる力、耐え忍ぶ力、そして人を思いやる力。 これらは誰もが本来持っている「仏様のこころ」なのだそうです。
今の私は、その力を信じることができず、自分自身の可能性に見切りをつけてしまっています。「私には優しさも愛情も足りない」と、自暴自棄になって頭を抱える毎日です。
弱さを抱えて、また明日も
「生涯を捧げる」という言葉の重みに、私は押し潰されそうになっていたのかもしれません。 自分はなんて弱い人間なのだろうと絶望します。師も友もおらず、ただ独りでこの暗闇を歩いているような心地がします。
けれど、こうして痛切に「申し訳ない」と感じること自体が、まだ私の心に火が灯っている証拠だと思いたいのです。
完璧な聖人君子にはなれないけれど。 明日は、忙しさの合間に、一度だけでもいいから目を合わせて微笑みたい。 厳しい口調になってしまったら、「ごめんね」と一言添えられる自分でありたい。
仏様の教えに触れながら、この「弱さ」さえも私の資質の一部なのだと受け入れられる日まで。 今日もまた、お弁当の湯気の中に立とうと思います。

