無心の心が日本を救う!

 まずは、Good news! 今日、そして明日と続けて新しい利用者様をお迎えします。一日も早くうららかな風に慣れていただけるよう、利用者様、そしてスタッフみんなでサポートします。お二人にとってうららかな風が、居心地よい場所となることを願っています。それにしても仲間が増えるって、これ程、嬉しいことはありませんね。

 さて、今日は久々の「のり弁当」と特別メニューかつ新メニュー「カオマンガイ丼」の盛り付けを行いました。大人気ののり弁は海苔の下に、たっぷりのかつお節醤油を敷き詰めてあり、ご飯と合わせて食べれば何杯でもいけそうです。その上には、白身魚のフライが鎮座、タルタルソースとの組み合わせは最高です。

 カオマンガイ丼はタイのチキンライスと呼ばれるタイを代表する国民食です。独特のタレで炊き上げたご飯とホロホロと崩れるチキンを頬張ればやみつきになります。私もはじめて食べさせてもらいましたが、うららかな風の新名物になる予感をビシビシ感じました。

『関東大震災から東京を復興させた男 ~後藤新平』

 1923(大正12)年9月1日午前11時、東京と神奈川を中心に関東一帯を襲い、10万5千人が犠牲となった「関東大震災」。あれから101年、今も日本では、地震や台風が多発し予断を許さない状況です。そんな大規模災害からいかに立ち直るか―――これは日本人にとって不変のテーマなのかもしれません。かつて関東大震災で壊滅的な打撃を受けた首都を甦らせた東京市長・後藤新平。感染症対策でも手腕を発揮した後藤の歩みを紹介します。

 大被害から復興の道を模索するいま、再び注目を集めている人物がいる。東京市長や帝都復興院総裁を歴任し、あの関東大震災で壊滅的打撃を受けた首都・東京を見事に甦らせた後藤新平である。後藤が目指したのは復旧ではなく復興であった。震災を機に東京を大改造し、欧米に負けない近代都市にすること。これは後藤が外務大臣就任を求めた思いにも通じていた。つまり、欧米列強の脅威に屈しない国づくりの一環だったのである。そのためにはまず、防災力をつけることが急務であった。関東大震災では、地震そのものより火事で亡くなった人のほうが多かった。これは隅田川に架かる橋が焼け落ち、住民が逃げ場を失ったことも要因であった。そこで後藤は、隅田川に架ける橋をすべて鉄橋に切り替えるとともに、世界に誇れる橋の博物館を目指して、市民から橋のデザインを募集。それをもとに設計したのが、吾妻橋や駒形橋などであり、21世紀のいまもなお使われ続けている。

 一方、震災で焼けなかったのは、皇居や浅草寺など、広大なオープンスペースに囲まれた施設であった。そこで都心各所に公園を造成することを決め、日本初の川辺公園である隅田川公園をつくり、また小学校には防災公園を併設し、避難場所の役割も果たせるようにした。多くの家屋が焼けたことを教訓に、不燃建築物の建設推進の一環として財団法人同潤会を発足。同会が東京・横浜に建設を進めた鉄筋コンクリートの集合住宅「同潤会アパート」は、日本の近代化を象徴する最先端の居住施設として話題になった。さらに、延焼遮断帯としての道路の役割に着目し、新橋から三ノ輪までの16キロに及ぶ昭和通りを建設。完成時の道幅は44メートルと、当時としては破格の広さであった。交通量の少なかった当初は、中央にグリーベルトを敷設して公園道路とした。昭和通り以外にも、幅40メートルの靖国通り、36メートルの晴海通りなどを建設し、さらに正式決定は総裁退任後となったが、環状道路計画も立案した。皇居を中心に放射状に延びる道路と周囲を循環する道路を組み合わせ、将来の交通渋滞緩和を目指したもので、現在の東京の都市構造の骨格となった。後藤の功績をいま一つ挙げるなら、区画整理の実施がある。地主から強い抵抗を受けるため政治家は敬遠しがちだが、後藤は震災後に3600ヘクタールにも及ぶ区画整理を断行した。

 後藤から学ぶべきことは何だろうか。無私の精神で復興に取り組んだ後藤の姿勢である。彼は社会にとって最も必要なことは何かと常に己に問うていた。だからこそ、国政から東京市という一自治体の長に転身した。我が国はこれまで、幾度も震災を乗り越えて発展してきた。関東大震災を経て東京は近代都市としての骨格をつくり上げた。阪神・淡路大震災に際しては復興を後押しする様々な法整備が行われた。それによって市民活動が活発になり、今回もボランティアの活躍が復興の大きな力となっている。国政に携わる政治家には、いまこそ後藤のような無私の心でこの難題に取り組んでもらいたい―――。