戦争孤児たちを救った深い愛…

 今日から7月のスタートです。深夜から朝にかけて、スマートフォンから次々と防災速報が入ってきました。時折、屋根を激しく打ち付ける雨に不安を感じ、目を覚まされた方も多かったのではないでしょうか。私も少々睡眠不足です。今は雨もやんで曇り空。激しい雨はなさそうでひと安心ですが、油断は禁物です。雨がたっぷり降った後ですので、少しの雨でも地盤が崩れやすくなっています。くれぐれもお気を付けください。

 今日は利用者様二人とのり弁当とおむすびセットを作りました。二人ともうららかな風の利用して1年。スキルも上達しています。もっと上手になって欲しい、もっと手際よく、もっときれいにできる…その思いが強すぎ、熱すぎる指導になってしまいました。私がそんなに熱くなったのは、弁当にかける思いが強すぎるからかもしれません。それは―――。

 1年ほど前に、営業訪問した会社で、「障がい者の作る弁当を食べたいと思う人がいますか?」と露骨に嫌悪感を示す方がおられました。その言葉を聞いた時、正直なところ傷つきましたし、とても落ち込みました。しかし、皆さん表立っては仰られませんが、それが多くの人の受け止めなのだと思いました。

 私たちは弁当屋で生きていくことを決心しました。だから、負け犬にはなりたくありません。その声を打ち負かすには、就労の事業所がこんなに美味しいお弁当を作るのか、と思って頂けるようなお弁当を作れば良いのです。そう、福山で一番美味しいお弁当を作る。みんながワンチームとなり、一つ一つのお弁当を全身全霊で作り上げる…私たちが弁当にかける思い「一個入魂」というスローガンは、それが原点でした。日々の積み重ねこそが、私たちの喜びであり、誇りなのです。ですから時折、熱くなってしまいます。熱くなるのは、単に弁当作りへのこだわりだけでなく、厳しい社会に負けるな!という激励でもあるのです。

『戦争孤児を救った主婦から学ぶ本当の優しさ』

 東京都中野区にある児童養護施設「愛児の家」。終戦直後の昭和20年11月に戦争孤児を受け入れるために立ち上がった主婦、石綿さたよさん(故人)によって創設されました。戦争で親を失った上野駅周辺にいた浮浪児を自宅に引き取り育てました。

 いまは3歳から18歳まで35名の子供さんがいて、虐待など様々な事情で親と一緒に生活できない可哀想なお子さんばかりですので、私たちが家族となって一緒に生活をしているんです。母は終戦後すぐに戦争孤児を自宅で育てるようになったのですが、それまではごく普通の主婦でした。父は手広く綿布の商売を成功させた起業家でしたので、かなり大きな屋敷に何人もの書生さんやお手伝いさんがおりました。母は終戦直後に新潟の別荘に米を取りに行き、その帰りに上野駅に溢れる孤児たちの惨状を目にし、放ってはおけなくなったようですね。中野のこの辺りは幸いにも空襲の被害が少なくて、「うちは助かったのだから、今度は気の毒な人たちを助けよう」というので、広い自宅で孤児たちを育てることになりました。

 終戦の翌月、最初に我が家に連れてこられたのは母の友人が山手線で出会ったという7歳の男の子でした。自分の名前以外、知らない子でしてね。我が家で戸籍をつくりましたけど、そういう子が1人、2人と日を追うごとに増えていきました。家に着くとまずお風呂に入れて、ご飯を出す。食糧難の時代でしたが、母はどこからか米や野菜を調達してくるんですね。人を安心させるのは温かいご飯が一番、というのが口癖でした。

 100人以上が生活していたでしょうか。運動会までやっていたくらいですから。夜寝る時なんか軍隊から払い下げの粗末なお布団を1階と2階の広間にダーッと並べるんです。母は大変だったことでしょう。朝4時頃、誰にも気づかれないようにそっと起きて、大きな鍋で皆の分の食事を作りました。ボランティアで手伝ってくださる方もいましたが、それでも重労働です。

 嬉しいことに卒業生の中には、立派に生きていった人が数多くいます。2年前、身内だけで70周年を祝う式典を開いた時、上野で孤児として生きていた頃の思い出を皆の前で語りました。私たちも初めて耳にする話で「あの時、ママに出会うことがなかったら、いまの自分はありません」としみじみと語られた姿に、私も思わず胸が熱くなりました。悲しい経験をバネにして力強く生きてきた孤児たちも、いまはもう後期高齢者となって、悠々自適の生活です。そういう方々と語り合いながら、思い出を分かち合うことは、私の大きな楽しみでもありますね。自分ではこれが当たり前だと思って今日まで生きてきましたから、特に艱難ということを意識したことはありません。私たちを支えてくださった多くの方々のご恩に報いるためにも、可哀想なお子さんを一人でも多く立派に育て上げたいし、そのことが自分に与えられた役割だと思っています。