人格の完成と「清心」の志 ―― 煩悩の渦中で見出す真実の生き方

極限の淵で見出した「人生の目的」
太平洋戦争後、A級戦犯として捕らわれた佐藤賢了氏は、獄中で深い煩悶の中にいました。「戦死もせず、自決もせず、生き恥をさらしてまでなぜ生きねばならんのか」と。 しかし、死を覚悟した孤独な思索の果てに、彼は一つの光を見出します。
「人生の目的は、人格の完成にある」
金や地位、学問さえも、すべてはこの「人格の完成」という目的のための手段に過ぎない。乞食であろうと囚人であろうと、いかなる立場にあっても、その気になればどこででも果たせる。この真理に辿り着いたとき、彼の絶望は生きる意味へと転換されました。
禅の眼差し:もともと完成されているという救い
この佐藤氏の悟りを、さらに深く包み込むのが禅僧・山田無文老師の教えです。 世間一般では、難行苦行の末に人格を「作り上げる」のが修行だと思われがちですが、老師は説きます。
「人格はこれから完成するのではなく、生まれたときに完成されている」
坐禅をして仏になるのではない。坐禅を通して余計な自我を脱ぎ捨て、生まれたままの「子供の心」に戻る。一日一日、与えられた務めを無心に果たすことこそが、本来の自分(仏)として生きるということなのです。
私の歩み:「清心」という名に込めた祈り
私は、この先人たちの言葉を鏡として、自らの生き方を深く反省してまいりました。 「決して道を踏み外さないように」 その決意を胸に刻み、また私がこの世を去った後もその精神が脈々と紡がれていくことを願い、自らの会社を「清心」と名付けました。
しかし、現実は平坦ではありません。 事業が安定し、落ち着きを手にすると、皮肉にも「欲」という名の煩悩が心を支配しようとします。志したはずの「清らかな心」が、どろどろとした執着に飲み込まれそうになる恐怖。経営者として、一人の人間として、その葛藤に身を焦がす日々があります。
細胞の隅々までを浄める「今」
今、私は再び無文老師の言葉に立ち返ります。 自分の中にある欲を否定し、無理に排除しようとするのではなく、老師の書を読み、その精神に触れることで、身体を構成する細胞の隅々までを浄化したいと切に願っています。
欲に揺れ動く自分もまた、人間の一つの姿かもしれません。けれど、その揺らぎに気づき、「清心」という原点に立ち戻ろうとする意志がある限り、道は途切れていないのだと信じたいのです。
「人生の目的は、人格の完成にある」
この言葉を単なる知識としてではなく、日々の葛藤という現場で、血の通った真実として生きていく。欲の波間にありながらも、与えられた務めを精一杯果たすこと。その一歩一歩の中にこそ、私の「清心」があると信じて歩みを進めてまいります。


