みんなの頑張りに、ブラボー!

今日はクリスマスですね。うららかな風のお弁当は、クリスマス特製のスペシャル弁当。製造能力ぎりぎりの250食限定でご注文を受け付けたところ、12月初旬には250食に到達。以降はお断りしなければならないほど、お問合せをいただきました。たくさんのご注文を頂戴し、心より感謝申し上げます。お受けできなかった皆さま、心よりお詫び申し上げます。

スタッフは朝5時から準備に取り掛かり、9時の利用者様の到着を待って、一斉に盛り付けをスタート。配達の時間を考えると、10時過ぎにはある程度仕上げておかなければなりません。つまりたった1時間しかありません。調理場は、あれがない、これがない、これはどうする、あれはどうした‥と声が飛び交います。終了予定の10時には完成しませんでしたが、配達時間には何とか間に合わせることができ、配達員さんにバトンタッチ。連係プレーで12時までに全てのお客様のもとへ配達を終えることができました。(ブラボー!、ブラボー!)

日に日に成長する利用者様には本当に驚かされます。本当にお疲れさまでした。よく頑張りました。これからもも「一個入魂!」。そしてどんなときも「ワンチーム!」。

100年以上も前、福祉という考え方すらなかった時代に、障がいを抱えた方々が世間からどんなに厳しい目でみられ、どんな困難な状況の中で生きてこられたかと思うと、筆舌に尽くしがたいものがあったことでしょう。

中村久子さんはそのお一人です。彼女の生涯を紹介させてください。

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『無限の力を信じて~中村久子さんの生涯』

中村久子さんは、明治30年に岐阜県で生まれました。久子さんが2才になった冬、「お父ちゃん、お母ちゃん、あんよが痛いよ」と泣き叫びました。両親が足の甲を見ると、黒ずみ凍傷になっていました。この凍傷がもとで、左手首、右手首、左足はひざとかかとの中間、右足はかかとから切断しなければなりませんでした。それから「自らの無限の力を信じた戦い」が始まりました。7才の時には父と死別し、厳しい生活環境の中で、お母さんの子を思う親心から厳しい厳しい教育が始まります。 10才のころ、手足のない久子さんにお母さんが、着物を与え、「ほどいてみなさい」と言われました。「どうしてほどくのですか」と聞くと「自分で考えてほどくのです」お母さんは、一つのヒントも与えず、「言いつけたことができなければご飯は食べさせません。人間は人の役に立つために生まれてきたのです。できないことはありません。」お母さんは心を鬼にして突き放しました。

不可能と思われたことが、知恵を生み、口で糸を通し、口で字を書き、口ではさみを使い、自らの挑戦が不可能を可能にしたのです。昭和12年にヘレン・ケラーと対面、「ケラー女史は私の側に寄り、熱い接吻をされました。そっと両手で私の両肩から下へ撫でて下さる時、袖の中の短い腕先にさわられたとたん、ハッとお顔の動きが変わりました。下半身を撫でて下された時、両足が義足とお分かりになった。再び私を抱えて長い間接吻され、両目から熱い涙を、私は頬を涙にぬらして女史の左肩にうつ伏せてしまいました」。新聞に、ケラー女史は「私より偉大な人!」と絶賛を送ったと書かれています。

両手・両足を切断するも、自らの意思で国からの福祉は受けず、自活して生きたその人生が多くの人々に生きる力を与え、「厚生大臣賞」を受賞されました。障がい者の人権もままならない時代、その気高く、誇り高い生き方は、今もなお色褪せることはありません。