この歌を歌いたい‥
昨日、3月生まれの利用者様2名の誕生日会を行いました。誕生日は、この世に生を受けた大切な日です。辿って来た道はそれぞれ異なりますが、うららかな風で出会い、ともに過ごす時間を重ねていくと、お互いの愛情は深まりまるで家族のように思えるほど大切な存在になります。その大切な、大切な利用者様の誕生日は、私たちの特別な日としてお祝いしたいと考え、うららかな風の開設当初から欠かさず行ってきました。
お二人とも少し恥ずかしそうでしたが、みんなで「ハッピー・バース・デイ」を歌って大盛り上がり。二人の笑顔があふれる、あたたかなひと時となりました。お誕生日、おめでとうございます。これからも、どうぞ宜しくお願い致します。
昭和を代表する歌姫・美空ひばりさんにまつわるエピソードを紹介します―――
美空ひばりさんはずっと歌を歌ってきました。自分のわがままで何をしたいとはほとんど言いませんでした。こうせざるを得ない状況でやるはめになったことを、そのまま淡々と、ああだこうだ言わないでやる。それが、ひばりさんでした。
病気になり、あと少しで死ぬかもしれないという状況になったときのことです。秋元康さんが『川の流れのように』という歌詞を書いて他の歌手の歌で出す予定となっていました。ひばりさんはその歌詞を見て、「この歌を私にちょうだい」と言いました。万感の思いを込めて「この歌を歌いたい」と思ったのです。そのときは、もう命が風前の灯火でした……。
亡くなる半年ほど前から、ひばりさんは舞台に自分の足で立つことができませんでした。緞帳(どんちょう)の脇まで車いすで連れていってもらい、何人もの人の手を借りて立たせてもらう。そして、緞帳が上がりました。歩けないはずだったひばりさんが2時間ものステージで歩き回って歌ったのです。心臓を調べた医者が驚きました。2000㏄しか肺の中に空気が入らないのに3600㏄ほどの肺活量で歌っていたのです。「奇跡としか考えられない」と、その医者は言ったほど。
息が続く。「ああ一」。この死を間近にしてひばりさんが最後に歌った歌が「川の流れのように」です。9歳で歌の天才少女と呼ばれ、あまりのうまさに「子供らしくない」と批判され、あるいは順風満帆に見える人生を嫉妬され、顔に塩酸をかけられたこともありました。昭和の時代にあっても、後半は古臭い、時代遅れと揶揄され辛酸を味わいました。しかし、辛さや苦しさを見せることなく、見る側・聞く側の期待に応え、スターであり続けました。
自分の思いを押し通すことはなかったひばりさんが、周囲からふさわしくないと反対されながらも、最後の最後に選んだ『川の流れのように』は、生命をつなぐことで精いっぱい、もう歌う力など残っていないほど衰弱した彼女を奮い立たせる一曲だったのだと私は思います。