【禅の心】体よりも大きな「心」の話 ― 境界線を引かない生き方

「自分の心は、体のどこにあると思いますか?」
そう聞かれると、多くの人が胸のあたりや頭の中を指差すかもしれません。しかし、鎌倉時代に禅を広めた栄西禅師は、その著書『興禅護国論』の序文で、驚くほどダイナミックな「心の姿」を説いています。
天よりも高く、地よりも深い「心」
大いなる哉(かな)、心や。
天の高きは極むべからず、しかも心は天の上に出づ。
地の厚きは測る可からず、しかも心は地の下に出づ。
栄西禅師は言います。「心はなんと偉大なことか。天はどこまでも高いが、心はその天をも超えていく。地は計り知れないほど厚いが、心はその地の下までも広がっていく」と。
私たちの心は、決して肉体という小さな箱に収まるようなものではありません。大空よりも広く、太陽や月の光さえも包み込む。それほどまでに広大で、無限の広がりを持っているのです。
なぜ「線を引く」と苦しいのか
私たちは日常の中で、無意識に「自分」と「他人」の間に境界線を引いてしまいます。 「ここまでは私の幸せ、あそこからは他人の事情」 「私は正しく、あの人は間違っている」
しかし、線を引くということは、自分を狭い場所に閉じ込め、外側との「分断」を生むことでもあります。その線が、ときに争いや孤独の原因になります。
禅で説く「空(くう)」とは、何もないという意味ではなく、「固定された境界線がない」ということです。心が無限に広いのであれば、そこには本来、自分と他人を分ける仕切りなど存在しません。
遠くの苦しみを「我が事」として感じる
平安時代の檀林(だんりん)皇后は、このような歌を残されました。
唐土(もろこし)の 山のあなたに 立つ雲は ここに焚く火の 煙なりけり
(遠い異国の山の向こうに立つ雲も、実はここで私が焚いている火の煙なのだ)
遠く離れた場所で起きていることも、実は自分の足元と地続きである。この歌は、時空を超えた心のつながりを鮮やかに映し出しています。
今、世界各地で起こっている争いや苦しみ。現地に行くことはできなくても、海の向こうで涙を流す人々に思いを馳せ、「何か自分にできることはないか」と支援の手を差し伸べる。 それは、心が特定の姿形を持たず、広く広く広がっているからこそできる「慈悲」の形です。
境界のない関係を築くために
「自分」という枠を少しだけ広げて、目の前の人や遠くの誰かを包み込んでみる。 「線を引く」のではなく、「線を引かない関係」を築いていく。心が広大であることを思い出せば、自分だけの利益に執着せず、他人のことも自然と思いやることができるようになります。
私たちの心は、この天地をすべて覆い尽くすほどに豊かなのです。 今日、少しだけ視線を上げて、空を眺めてみませんか。その空よりも広いあなたの心が、誰かを温かく包み込んでいるかもしれません。

