「露の世は 露の世ながら さりながら」

 今日は二十四節気の「冬至」です。今日をピークに少しずつ昼の時間が長くなっていくと思えば、厳しい冬に向かいますが、少しだけ気持ちが前向きになります。

 1月のメニュー表がようやく完成しました。新作メニューも続々登場します。たくさんのご注文をお待ちしております。

「人生の答え」を見つけている方はおれれるでしょうか?

 私は今年五十五歳を迎えました。人生の折り返し地点を過ぎ、残された時間を意識せざるを得ない年齢です。しかし、恥ずかしながらこの歳になってもなお、これまでの生き方への後悔や反省が渦巻き、これからどう生きればよいのか、その答えは見つからぬまま、葛藤の中に身を置いております。かつて、円覚寺の朝比奈宗源老師はこうお説きになりました。

「私たちは仏心という広い心の海に浮かぶ泡の如き存在である。生まれる前も仏心、生きている間も仏心、死んでからも仏心。仏心とは一秒時も離れていない」

 私たちの命は、大きな仏さまの命から生まれた一滴であり、死とはその大海に帰っていくこと。増えもせず、減りもせず、ただ大きな安らぎの中に溶け込んでいく。そう伺うと、死への恐怖や人生の迷いは、ふっと軽くなるような気がいたします。しかし、頭ではそう分かっていても、心が追いつかないのが私たち人間ではないでしょうか。

 俳人の小林一茶は、我が子を次々と亡くした絶望の中で、こう詠みました。

「露の世は 露の世ながら さりながら」

 この世は露のように儚いものだと分かっている。死ねば仏様のもとへ帰るのだと分かっている。「さりながら」、やはり悲しい。やはり寂しい。あきらめきれない。 この「さりながら」という五文字にこそ、迷い、苦しみ、後悔せずにはいられない人間の真実が詰まっているように思えてなりません。私は今、この「仏心の大海」という大きな安心感と、「さりながら」という人間特有の葛藤、その両方を抱えたまま生きています。もしかしたら、人生の答えなど死ぬまで出ないのかもしれません。 けれど、それで良いのではないか。後悔や反省があるのは、それだけ一生懸命に誰かを思い、生きてきた証拠ではないか。そう思うようになりました。私たちは皆、仏心という大きな海に抱かれた「一滴」です。 迷いながら、涙を流しながら、それでもこの「さりながら」の人生を、一歩ずつ歩んでいきたい。そしていつか、その一滴が海に帰るその時まで、この葛藤さえも大切に抱えて生きていこうと思っております。