「経験」という牢屋‥

 昨日に続き今日も雨が降ったり曇ったりを繰り返し、ようやく薄日が差し始たのは夕方でした。明日は久しぶりに良い天気になるとのことですが、黄砂に注意が必要だそうです。お天道様に会えると思うと、うれしいですね!

 今日は利用者様とカツカレーの盛り付けを行いました。黙々とご飯をよそい、その上にビッグサイズのトンカツを載せ、パセリを振り、福神漬けを入れて、最後にルーを投入して完成です!わらじのような大きいトンカツにご注文された方は驚かれたのではないでしょうか(正直、私もびっくりしました)。来月5月は、「カツはカツでも ヒレカツカレー」を予定しております。皆様の期待を裏切りませんので、ぜひご賞味ください。

 旧聞になりますが、10年ほど前に話題となった東京造形大学の2013年度入学式の諏訪敦彦元学長の式辞を紹介します。

『大掛かりな映画ではなくて、絵画のように自由に表現するささやかな映画を作りたいと思い、私は東京造形大学に進学しました。地方から東京に出てきた私は、時間があるとあちこちの映画館を飛び回り、それまで見ることができなかった映画を見ていましたが、そこで偶然に出会った人たちの映画づくりをスタッフとして手伝うようになりました。まだインディペンデントという言葉もなかった時代、出会った彼らは無名の作家たちで、資金もありませんでしたが、本気で映画を作っていました。彼らは、大学という場所を飛び出し、誰にも守られることなく、路上で、自分たちの映画を真剣に追求していました。私はその熱気にすっかり巻き込まれ、彼らとともに映画づくりに携わることに大きな充実感と刺激を感じました。それは大学では得られない体験で、私は次第に大学に対する期待を失っていきました。大学の授業で制作される映画は、大学という小さな世界の中の出来事でしかなく、厳しい現実や社会の批評に曝されることもない、何か生温い遊戯のように思えたのです。

 そんなとき、私はふと大学に戻り、初めて自分の映画を作ってみました。自信はありました。同級生たちに比べ、私には多くの経験がありましたから。しかし、その経験に基づいて作られた私の作品は惨憺たる出来でした。大学の友人からもまったく評価されませんでした。一方で、同級生たちの作品は、経験も、技術もなく、破れ目のたくさんある映画でしたが、現場という現実の社会の常識にとらわれることのない、自由な発想に溢れていました。授業に出ると、現場では必要とはされなかった、理論や哲学が、単に知識を増やすためにあるのではなく、自分が自分で考えること、つまり人間の自由を追求する営みであることも、おぼろげに理解できました。驚きでした。大学では、私が現場では出会わなかった何かが蠢(うごめ)いていました。私は、自分が「経験」という牢屋に閉じ込められていたことを理解しました(略)』

 私はこの式辞にとても共感しました。積み重ねてきた知識と経験は、時に私たちを思考停止にさせてしまいます。そして、新しい発想を妨害します。今までの考え方では乗り越えることができない問題や課題に直面した時、知識や経験はやっかいな存在になるのです。固定概念にとらわれないために、私たちは常に様々なジャンルの本や異分野の人たちと出会いを通して、見識を広げる作業が必要なのだと私は感じました。