うららかな風が運ぶもの ―― 境界線を越えて響き合う命

最近のニュースに目を向けると、ウクライナ、パレスチナ、そして中東‥。 国境線をめぐる争いや、指導者たちの思惑による「いざこざ」が後を絶ちません。

その影で、一番に犠牲になるのはいつも、子どもたちや女性、お年寄りといった、何の罪もない市井の人々です。かつての日本がそうであったように、国家という大きな物語のために、個人の尊い命が軽んじられる現実に、言いようのない憤りと悲しさを覚えます。

そんな時、ふと思い出したのが、谷川俊太郎さんの「カラダ」という詩です。

きずついてあかいちをながし
いたみにひめいをあげるのは
てきもみかたもないカラダ

ココロはこっかにぞくしていても
カラダはしぜんにぞくしている
カラダにはこっきょうがない

「ココロ」は、教育や思想、あるいは国籍という枠組みに染まってしまうことがあります。 しかし、「カラダ」は違います。 どこの国の人であっても、傷つけば赤い血が流れ、痛みには悲鳴を上げます。お腹が空けば苦しく、寒ければ震える。それは、人間が作り出した「国家」という境界線など軽々と飛び越えてしまう、生命としての根源的な事実です。

詩はこう続きます。

カラダはだれのものでもない
じぶんのものでさえもない
それはうちゅうからあずかった
いのちのかりのやど

この一節に触れると、仏教的な「無常」や「縁起」の教えを想起せずにはいられません。 私たちの命は自分勝手に扱っていいものでも、誰かの道具にしていいものでもありません。宇宙から一時的に預かっている尊い「借り物」なのです。

指導者たちがどれほど大義名分を掲げようとも、生身の人間が流す血の重みに勝る理屈など、この世には存在しないはずです。

私たちは大きな波に飲み込まれそうになる時こそ、この「カラダの真実」に立ち返る必要があるのではないでしょうか。

まずは、目の前にいる人の痛みに寄り添うこと。 そして、自分自身の「借り物の命」を、精一杯慈しんで生きること。 その小さな積み重ねの先にしか、本当の平和はないのかもしれない――。

先日、3月生まれの利用者様の誕生日会を行いました。 開業間もない頃から通ってくださっているお一人が、目に涙を浮かべてこう仰ってくださいました。 「ここで4回目の誕生日を迎えました。最初は人数も少なかったけれど、あの時から変わらず温かく祝ってくれる皆さんの思いに、本当に感謝しています」

その言葉に、私自身の胸も熱くなりました。 人がこの世に生を受けたという奇跡。そして、複雑に絡み合う運命の糸の中で、ここ「うららかな風」で結ばれたご縁。 その一つひとつを大切に守り抜きたいという一心で、今日まで歩んできました。

国家や組織という大きな枠組みの中で、時に私たちは自分を見失いそうになります。 けれど、こうして目の前でともに笑い、ともに涙を流す瞬間こそが、何にも代えがたい「真実」なのだと教えられます。

最後に、仏の心を詩に託し続けた坂村真民先生が、その最晩年に残された言葉を思い出します。

こんど生まれたら
鳥になります
なぜなら
鳥には
国境がないからです

人間が引いた境界線に縛られず、ただ「いのち」として空を舞う鳥の姿。 真民先生が最期にたどり着いたその願いを、いま改めて噛み締めたいと思います。

春の気配を感じる今日この頃、そんなことを静かに考えています。