3度の絶対無理、不可能を乗り越えた不屈の精神
みなさん、3連休はゆっくりされましたでしょうか? 私は、かねてから娘が広島平和記念資料館に行きたいと言っておりましたので、小学校の社会見学以来、四十数年ぶりに足を運んでみることにしました。娘は小学4年生で、学校で平和学習も受けており、原爆の悲惨さもある程度、理解していたと思いますが、遊園地など楽しい場所ではなく、平和を学ぶ資料館に行きたいと言ってくれたことをうれしく、また誇らしく思いました。5年前にリニューアルされた館内には、失われた人々のあまたの写真、原爆が投下される前後の日記や描画、そして焼け焦げた遺品などが展示されており、目を覆いたくなるような衝撃で、鼓動は脈打ち、胸が痛み、息苦しさを感じました。多くのインバウンドの外国の方も見学されており、中にはこらえきれず涙を流す姿もありました。思いは一つ―――。
「戦争はいけん。核兵器はぜったいにいけん」
ひと通り見終わった後、「平和な社会を守ってくださいね」と娘に伝えると、「分かった」のひと言。そのひと言だけでも、資料館に連れてきて良かったと思いました。
「どうか平和な世界が、いつまでも続きますように」
『奇跡の7本指ピアニスト西川悟平~不可能をバネにする力』
2021年8月に開催されたオリンピック・パラリンピック東京大会。たくさんの選手の努力と活躍を見ることができた、まさに『夢の舞台』でした。その夢の舞台に立ったのは選手だけではありません。パラリンピックの閉会式で演奏した、ピアニスト西川悟平さんもその一人です。演奏した曲は“Whata Wonderful World”(この素晴らしき世界)。
西川さんは、これまで3回、「それは絶対無理です。不可能です」と言われたことがあるといいます。最初は15歳の時。ピアノ教室に通い始めて初めて熱中できるものをみつけた思いがして、ピアノの先生に自分は将来音楽の大学に行きたいと話したら、「それは絶対無理」と言われたそうです。ピアノ専攻で音楽大学に進むには、2~3歳くらいでピアノを弾き始め1日何時間も練習したような人が行くのだから、15歳でバイエルを弾いている状態ではとても無理、というのが常識なのです。でも、西川さんはどうしても音楽大学に行きたいと思い、有名な演奏家のショパン演奏を聴き、バイエルの練習から始め、数年後音楽大学に進みます。これが絶対無理を覆したスタートになります。
2回目の「絶対無理、絶対不可能」は音楽大学を卒業して数年後のことです。生活費を捻出するために和菓子屋で働いていたころ、アメリカから来日する著名なピアニストの前座で演奏する機会がありました。そのピアニストに「君は技術はないが伝えたいものがたくさんあるね。それをどうすれば伝わるようになるのか教えてあげるよ。ニューヨークに来るなら私に連絡するように」と言われます。周りの人たちには「そんなうまい話はあるはずはない。絶対無理。ニューヨークで成功するなんて不可能」と言われてしまいます。それでも西川さんはニューヨークに行って学び、世界最高峰のカーネギーホールで演奏するようになるのです。
しかしそんな大成功のある日、突然指が曲がり動かなくなるという状況に陥ります。大病院などをいくつも周り、難病の「ジストニア」という診断を受け、「プロとしてはもちろん趣味としても演奏はできない。不可能。絶対無理」と3回目の「絶対無理」を言われてしまったのです。これにはショックを受け人生のすべてを失ったように思えたそうです。しかし、友人から誘われて訪れた幼稚園で子どもたちの前で演奏したことがすべてを変えます。子どもたちは西川さんの曲がった指などまったく気に留めず演奏を楽しんで踊ったりしているのです。それを見て西川さんは動かすことができる指で演奏をしようと決心します。これが今、西川さんが機能が残る7本の指でプロとして演奏を続けられる理由なのです。
ピアニストとして復帰した西川さんは新たな夢に向かい始めます。それが、東京2020大会の舞台で演奏することでした。「最悪の出来事も最高の出来事に代わることがあるということを伝えたい。僕がそのことを果たせたら、それを証明できる」。西川さんの言葉です。
「無理」、「不可能」。こんな言葉を私たちは言ったり、言われたりします。先が見えない不安もあります。すぐに結果が求められることもあるでしょう。でも、まずは目の前のこと、できることから始めるのが遠くの夢や大きな目標への第一歩です。西川さんは、3分の曲を7年かけて弾けるようになるという気が遠くなるような道のりからのスタートでした。みなさんも、今さらとは思わず、これができたら、こうなれたら‥という思いがあるのであれば、一歩ずつ始めてみてください。その思いが強ければ、その思いを持ち続けることができれば、きっと「不可能」を「可能」とすることができるでしょう。