泥を肥やしにしてこそ大輪の花が咲く
今日もとても暑い一日になりました。まだ夏仕様の身体にはなっていない思います。しっかりと温度管理・水分管理をしてください。明日も暑くなりそうです。
福山を代表するタウン誌「ビジネス情報」の取材を受けました。企画は「あの人のおすすめのランチ」。毎日欠かさずご注文くださるオーザックの岡崎副社長様のおすすめのランチでうららかな風のお弁当を選んでいただきました!
オーザック様に利用者様とお弁当をお届けする際、スタッフの皆様がいつもあたたかく迎えてくださるんです(こんな気持ちの良くなる企業様は他にありません!)。その温かさは、玄関を入ってすぐに感じます。利用者様もそれが分かっており、「今日はオーザックさんの配達ある?」、「副社長さんに会えるかな」が口癖になるほど。またお知り合いの企業様に声をかけてくださり、たくさんのお弁当を届けさせていただいています。感謝、感謝、感謝‥。ですから、オーザック様に足を向けて寝ることはできません。ご恩に報いるためにも、おいしい弁当を作り、喜んでいただく。日々の収斂を忘れず、利用者とともに一所懸命作らせていただきます。なお、今回の記事は、8月1日号で掲載される予定です。市内の書店などでぜひ手に取ってご覧ください。
『人生に絶望した私を救った「泥を肥やしに咲く花」の教え~松原紗蓮(浄名寺副住職)』
私が浄名寺(愛知県)に預けられたのは、2歳7か月の時。幼い頃に「両親は亡くなった」と聞かされ、親代わりの庵主様のもとで育ちました。中学2年の時、役所に書類を提出する際、庵主様から「実はねぇ」と言って、出生の秘密を打ち明けられたのでした。聞けば、両親は私が幼い頃に離婚し、母親が再婚する際、娘の私をお寺へ預けたというのです。
自分は生まれてきてはいけない存在だったんだ。一体何を信じて生きてきたのだろう?3か月間泣き通した後、私が選んだ道は、髪の毛を金色に染めて、耳にピアスの穴を開け、あらゆるものに歯向かい、強がって見せることでした。暴走族の仲間たちと一晩中走り回り、家出を繰り返す毎日。14歳で手を出した薬物はその後7年間、1日としてやむことがなく、私など消えてしまえ、という思いから、幾度となく自傷行為を繰り返しました。
心配した庵主様は、私が20歳になった時に私を京都の知恩院へ修行に行かせ、そこで尼僧になる決意をさせようとしたのです。金髪のまま無理やり寺へ押し込められた私は訳が分からず、初めのうちは反発ばかりして叱られ通しでした。ところが10日目を過ぎた頃、教科書に書かれてある仏様の教えが、読めば読むほど、庵主様の生き様そのものと重なることに気づいたのです。庵主様はお洒落もしなければ、食べる物にお金を掛けたりもしない簡素な暮らしで、他の楽しみに時間を使うこともなかった。ではその分、一体何に時間を使っていたか。そう考えた時に、庵主様はすべての時間を「私を育てる」という一事に使ったのだと知ったのです。止めどもなく涙が溢れてきました。修行の後、お寺に戻った私が庵主様に、なぜ私を叱ったり、本当の気持ちを聞かせてくれなかったのかと尋ねたところ、
「人間は、時が熟さなければ分からないことがある。ひと月前のおまえに私がどれだけよい言葉を聞かせても、かえって反発を生むだけだった。いまおまえが分かるということは、おまえに分かる時がきたということだ。仏道は待ちて熟さん」
と話されました。庵主様には1つの願心があり、私がグレ始めた14歳の時に、10年間は黙ってこの子を見守ろう、何があっても「平素のように生きよ」と決めたのだといいます。23歳で剃髪出家をした時、私は庵主様に「紗蓮」という法名をいただきました。
「美しい蓮の花は、泥まみれの池の中にしか咲かないのだよ。人生にも、悩みや苦しみはあって当たり前で、その泥を肥やしにしてこそ大輪の花が咲くのだ」
振り返れば、14歳から20歳までのどん底の時代が、私にとってはまたとない、よい肥やしになったと感じています。現在はお寺でのお勤めの他、市の教育委員会からの要請で、悩みを抱える子供たちの自立支援相談や講演活動を行ったりしています。非行に走る子供たちはそれぞれに、人に言われぬ苦悩を抱えています。だからこそ大きな可能性を秘めている。『人一倍光るようになるよ、この子たちは!』。私はいつもそんな気持ちで子供たちのことを見守っています。