死にゆく母親は憎まれたほうがいい‥

一週間がスタートしたと思ったら、もう週末です。こうして、一週間、一ヶ月、一年‥と過ぎ去っていくのでしょう。人生を有意義なものにしていくためには、利己ではなく、やはり利他を心がけて日々生きていくことが大切だと私は思います。では自分がそれを常に実践できているか?それはノーです。まだまだ境地には至りませんし、生きている間に到達することはできないでしょう。それでも、利他の精神を頭に擦り込み、継続する努力を続けていきたいと思っています。

今日はたくさんのご注文を頂きました。私は利用者様2名とのり弁当、から揚げ弁当の盛付を担当しました。作る数が多くなると、どうしても雑になる傾向になるのですが、二人とも経験を積み収斂を重ねてきましたので、手際もよく、しかも丁寧に作り終えることができました。「ブラボー」でした。来週も頑張ろうね。

今日は、作家・西村滋さんの少年期の話を紹介します。
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少年は両親の愛情をいっぱいに受けて育てられた。殊に母親の溺愛は近所の物笑いの種になるほどだった。その母親が姿を消した。庭に造られた粗末な離れ。そこに籠もったのである。結核を病んだのだった。近寄るなと周りは注意したが、母恋しさに少年は離れに近寄らずにはいられなかった。しかし、母親は一変していた。少年を見ると、ありったけの罵声を浴びせた。コップ、お盆、手鏡と手当たり次第に投げつける。青ざめた顔。長く乱れた髪。荒れ狂う姿は鬼だった。少年は次第に母を憎悪するようになった。哀しみに彩られた憎悪だった。少年6歳の誕生日に母は逝った。

「お母さんにお花を」と勧める家政婦のオバサンに、少年は全身で逆らい、決して柩(ひつぎ)の中を見ようとはしなかった。父は再婚した。少年は新しい母に愛されようとした。だが、だめだった。父と義母の間に子どもが生まれ、少年はのけ者になる。少年が9歳になって程なく、父が亡くなった。やはり結核だった。何度目かの家出の時、義母は父が残したものを処分し、家をたたんで蒸発した。それからの少年は施設を転々とするようになる。13歳の時だった。少年は知多半島の少年院にいた。もういっぱしの「札付き」だった。ある日、少年に奇蹟の面会者が現れた。泣いて少年に柩の中の母を見せようとしたあの家政婦のオバサンだった。オバサンはなぜ母が鬼になったのかを話した。死の床で母はオバサンに言ったのだ。

「私は間もなく死にます。あの子は母親を失うのです。幼い子が母と別れて悲しむのは、優しく愛された記憶があるからです。憎らしい母なら死んでも悲しまないでしょう。あの子が新しいお母さんに可愛がってもらうためには、死んだ母親なんか憎ませておいたほうがいいのです。そのほうがあの子は幸せになれるのです」

少年は話を聞いて呆然とした。自分はこんなに愛されていたのか。涙がとめどもなくこぼれ落ちた。札付きが立ち直ったのはそれからである。