日常の営みこそ修行である
今週末は第57回福山ばら祭りが開催されます。雨が多く不安定な天候が続き、ばらの開花を心配しておりましたが、送迎や弁当配達で市内を周ると、すでに満開となったばらの花壇をあちこちで目にします。そのばらの花たちは、例年以上に華やかで、美しいと感じます。天気予報では週末も晴れ。今から期待が膨らみます。
ところで、福山市では2011年から市内の全小学新1年生に入学のお祝いとしてばら苗をプレゼントしていています。今さらですが、ばらにはトゲがあります。そのばらのトゲが刺さって手が腫れたと、親御さんからクレームがあったそうです。実際はトゲが原因ではなく、虫に刺されて腫れたものでした。「トゲは下向きのため撫でてあげることもできるんです。可愛いねとやさしく撫でてあげて」とは福山ばらの会の会長の話。ローズマインド。福山市が一年でもっともやさしい心で満開になる季節を迎えます!
仏教書『無門関第七則「趙州洗鉢」』は、私たちの日常の営みこそが修行であると説きます―――。
趙州和尚にあるお坊さんが質問をしました。
「私は修行の道場に入ったばかりの新米でございます。どういうふうに修行したらいいでしょうか」と。
趙州和尚が「お前さん、朝のお粥は食べたか」と。僧は「はい、朝ご飯は終わりました」と答えました。それに対して趙州和尚は「それなら自分の食器を洗いに行って片付けておきなさい」。その僧はハッと気がついた、という話です。
お粥と梅干の食事をいただいて、そして食べ終わったならば自分で食器を洗って片付ける。他の宗派の道場では、修行する人は特別な行をやって、ご飯は賄いの人が作ってくれて、ご飯を食べ終わったならば食器は片付けの人が片付けてくれるというところもたくさんあります。しかし、禅は違います。ご飯を作るということも素晴らしい修行ですし、自分で使った食器を自分で洗うのも修行なのです。何も特別なことではなく日常の営み、つまり凡事。凡事そのものが修行であり、禅そのものと言えます。
鍵山秀三郎氏(イエローハット創業者)が実践した凡事徹底。凡事を積み重ねて積み重ねた結果、積小為大で大事業にまで発展していく。それももちろん尊い素晴らしいことです。しかし、禅の考え方は、実を結ぶか結ばないかは関係ありません。凡事が凡事のままで一つ一つ光り輝いているという教えです。スリッパを揃える、トイレをきれいにしておく、落ちている紙くずを拾う‥。その行為自体が聖なる行いであり、そこに光があり、その営みそのものが素晴らしいと言えるのです。