幸せは手に入れるものでも、望むものでもなく、気づくもの

 今日の作業は、ある企業様から特別メニューのオーダーが入り、その盛り付け作業を一人で行いました。料理長の渾身のメニューの数々は見た目は勿論、味も超一流。ですから私が足を引っ張らないよう、細心の注意を払いながら、心を込めて盛り付けました。暑さもですが、それ以上に緊張したせいでしょう、作り終えた後は汗でびっしょり。それにしても、やっぱり一人作業は寂しいですね。利用者様と一緒に作りたかった‥。

『画家・詩人の河村武明が掴んだ人生の法則』

 小学生の頃からギターを弾いて歌っていました。中学・高校では、矢沢永吉、ビートルズなどの音楽に夢中になり、大学でも最初に訪ねたのは軽音楽部。ここでいまも付き合ってくれる大切な仲間たちと出逢い、バンド活動とバイトと恋に忙しい大学生活を送りました。上場企業に就職しましたが、「サラリーマンは自分に合わない」「自由に生きたい」と思い、退社しました。その後は様々な職業を転々としながら、平日は仕事、土日はライブハウスなどで歌を歌う充実した日々を過ごしました。仕事は全く続かない男でしたが、歌は裏切らない、歌だけが自分の唯一の救いでした。世の中には不可能、無理だと言われることを実現していく人がいます。その反対に「どうせできるわけがない」とすぐ諦めてしまう人がいます。当時の僕は後者のすぐ諦めてしまう人間だったように思います。仕事も音楽も家庭を持つことも、人並み以上に何一つ成功したことがない人間でした。

 2001年、自宅に一人でいる時に、突然脳梗塞で倒れたのです。発見されるまでに48時間が経過、搬送された病院のICUから個室に移ったその日、僕は「言語障がい・聴覚障がい・右手麻痺・失語症」という重い後遺症が残っていることを知らされたのでした。まさか自分が障がい者――言葉は何一つ喋ることができないのに声を上げて泣きました。火がついたように泣いたのは、大人になってから初めてのことでした。運も神様も周りの人間からも、すべてから見捨てられたと感じ、「34歳で自分の人生は見事に終わった。これ以上生きていても何一ついいことはない。僕は世界で一番不幸だ」と本気で思いました。それは深い絶望でした。なぜなら、歌を歌うこと、音楽を聴くこと、ギターを弾く右手など、脳梗塞は僕が得意だったものをわざわざ選んだかのように、そのすべてを奪っていったからです。本当の絶望を経験した人は「周りの景色がモノクロになる」と言いますが、僕も本当にそうなりました。「死」が僕を強く誘っていました。

 本格的なリハビリがはじまりました。当初は「喋ることができる薬、言葉の聞き取りができる薬、右手が動く薬があるのなら、1億円出してでも買いたい!」などと考えていました。しかし、次第に友達とくだらない話をしたり、ギターを弾いたり、日常の会話やありふれた挨拶のすべてが愛おしいことだった、発病する前の自分は、本当に幸せだったんだという思いが込み上げてきたのです。そしてはっと気づかされたことがあります。それは、日常の当たり前のことがどれほどありがたいことであったか、日常に感謝することがどれほど大事であったかということです。病気の原因の一つは、自分の“感謝不足”にあるのだと気づかされたのです。幸せとは手に入れるものでも、望むものでもなく、気づくものでした。それからの僕は、この障がいを喜んで受け入れ、「ありがとう」と感謝するようにしました。とはいえ、重い障がいを抱え、本心ではちっとも「ありがとう」という気持ちにはなれませんから、最初は本音の苦しい心をごまかして、無理矢理でも「ありがとう」を毎日毎日ひたすら言い続けました。感謝とは「ありがとう」を発すること。「ありがとう」の言葉を言わなければ感謝ではない、苦しい時は無理矢理でもよいのです。

 僕は祈りを込めて、小学校以来、久々に画を描くことにしました。麻痺した右手の絵の横に「右手 自由 祈」という文字を記しました。下手な絵と文字でしたが、僕の心に眩しい光が差し込み、絶望が希望に変わった瞬間でした。これは、苦しい時も「ありがとう」と感謝した効果だったのかもしれません―――。