何のために働くのか?

 今日の福山の最高気温は36℃、猛暑日となりました。相変わらず厳しい残暑が続いております。今年の夏は、猛暑日が何日あったことでしょう。この先も・・・。もう、先のことを考えるのはやめておきます。

 今日は利用者様と『アボカド&スパム丼』(680円)を作りました。盛り付けている私たちも、「色鮮やかで、おいしそう」の声。有名な食レポのタレントさんなら「まるで宝石箱や~」と仰るに違いありません。ちなみにスパムは結構いい値がするんです。ですから、価格も少し高くなってしまいました。

 さて、今日は1月に卒業した利用者様が、お願いしていた書類をわざわざうららかな風まで届けに来てくれました。彼は、2月に一般就労で金属加工会社に入社。それ以来、寒い日も暑い日も、雨や雪の降る日も、休むことなく仕事を続けています。勤め先の社長様からも、まじめに頑張ってくれていますよとお褒めの言葉も聞きました。

 ”ブラボー!”

 書類の中に手紙が入っておりましたので、一部分を紹介させてください。

『うららかな風で学んだ事が今も私を支えてくれています。

 「何のために働くのか?」

 それはうららかな風にいた頃の私の課題でした。もちろんお金を稼ぐためですが、それだけでは動機は不十分です。お金が動機だと楽な仕事ばかりに目がいきます。

 働く理由として、もう一つ大事な事は「自分が世のため人のために何ができるだろう」と問い続ける事なんです。「何を得られたか」よりも、「人として生まれ、世のため人のために何ができたか?」

 人生の終わりを迎えるなら、そう振り返りたいと思いました。自分の仕事が世のため、人のためになる、これこそが人生の喜びではないでしょうか?(省略)』

 ”ブラボー、ブラボー、ブラボー”

 優等生の手紙です。手紙の内容について何も申し上げることはありませんが、私が少し心配なことは、真面目で、考えすぎてしまい、心がしんどくないか、苦しくないか‥です。しんどい時はしんどい、苦しい時は苦しいと言っていいんですよ。誰だって、生きていればしんどい時、苦しい時はあります。時には、そのストレスを解放してあげてください。愚痴をこぼしてください。甘えてください。少し疲れた時は、うららかな風に羽を休めに来てください。

 また、仕事ぶりを見に行きますね。その時は、かつてうららかな風で一緒に作ったベーグルをお土産にするね。また笑顔で会いましょう。

『目がさめたら~東井義雄のいのちの言葉』

『目がさめてみたら』

 目がさめてみたら 生きていた

 死なずに 生きていた

 生きるための 一切の努力をなげすてて

 眠りこけていたわたしであったのに

 目がさめてみたら 生きていた

 劫初(ごうしょ)以来 一度もなかった

 まっさらな朝のどまんなかに

 生きていた いや

 生かされていた

 みなさんは目がさめてみたら生きていたということに、驚きと感動を持つことがありますか。そう感じることがなかった未熟な我が身を、恥ずかしく思います。東井先生は、この詩の最後を「生きていた いや 生かされていた」と結んでいます。お互いの迷いや苦しみを引き起こす原因は、お互いの貪り、瞋り、愚痴(ぐち)です。そして、その根本は、自我です。自我というのは、すべては移りか変わるにもかかわらず、いつまでも同じ自分があり続けると思い、すべてはつながりあっているにもかかわらず、自分だけで生きてるように勘違いしてしまっていることです。

 毎日毎日、一生懸命に仕事をしています。仕事以外にも、子育てや介護、家事など生活していくのに辛苦しています。しかし、その頑張りがまた自我を生み出してしまうことがあります。「わたしは、こんなに努力している」という自我です。

 そのような自我の愚かさに気づくことが大切です。山に登ったりして、大自然のふところに抱かれてみると、いかに自分など小さく、はかなく、もろいものであるか身にしみます。なにもわざわざ外に出掛けて山に登らなくても、大地に支えられ、大気に包まれているからこそ、いま呼吸できているのです。眠っている間も、生かしてくださっている大いなるはたらきが、この身の上に現れているのです。そんな風に感じてみると、お互いに小さくはかない者同士、いたわり合う気持ちが湧いてくるはずです―――。