ベストを尽くせ~異国で散った青年の名はいまも

 送迎や弁当の配達をしておりますと、軒先に植えられた紫陽花が色鮮やかに咲いているのを見かけます。ついこの前まで市内にはバラの花が咲き誇っておりましたが、もう紫陽花が…。花たちを見ながら季節の移ろいを感じます。今日から二十四節気の「芒種(ぼうしゅ)」になりました。なかなか耳にしない言葉ですが、古くから日本で大切にされてきた節気のひとつです。稲や麦など穂の出る植物の種を蒔く頃のこと。この頃から、雨空が増えていきます。梅雨入りは目の前です。

 弁当回収の際に、車同士の接触事故がありました。市道を走行中、側道から侵入してきた相手方車両との出合い頭の事故でしたが、幸いなことに双方ともけが人はありませんでした。事故が起きたことはとても不幸なことであり、あってはならないことですが、まずは大事に至らなかったことに安堵しております。事故についてはしっかりと検証し、再発防止に努めて参ります。どうか皆様も心にゆとりを持って運転してください。

「父子の約束が起こした奇跡――息子の名前のつく村」(中田武仁)

 平成4年になって間もなく、大阪大学を卒業し、外資系のコンサルティング会社に就職が決まった息子の厚仁から、1年間休職し、国連ボランティアとしてカンボジアに行きたい、という決意を打ち明けられた。カンボジアは長い内戦を抜け出し、国連の暫定統治機構のもとで平成5年の総選挙実施が決まった。選挙人登録や投開票の実務を行う選挙監視員。それが厚仁が志願したボランティアの任務の内容だった。厚仁の決意は私にとって嬉しいことであった。商社勤めの私の赴任先であるポーランドで、厚仁は小学校時代を過ごした。いろいろな国の子どもたちと交わり、アウシュビッツ収容所を見学したことも契機となって、世界中の人間が平和に暮らすにはどうすればいいのかを考えるようになった。

 現地の政情は安定には程遠い。ポル・ポト派が政府と対立し、選挙に反対していた。息子を危険な土地に送り出す不安。私には厚仁より長く生きてきた世間知がある。そのことを話し、それらを考慮した上の決意かを問うた。厚仁のうなずきにためらいはなかった。私は厚仁の情熱に素直に感動した。

 厚仁の担当地区は、政府に反対するポル・ポト派の拠点、コンポントム州。任務があと1か月ほどで終わろうとする平成5年4月、私は出張先で信じたくない知らせを受けた。厚仁は車で移動中、何者かの銃撃を受け、射殺されたのだ。

 カンボジアの寺院で、厚仁は荼毘(だび)に付された。私は決意した。長年勤めた商社を辞め、ボランティアに専心することにしたのだ。そんな私を国連はボランティア名誉大使に任じた。そういう私の姿は厚仁の遺志を引き継いだ、と映るようである。確かに厚仁の死がきっかけにはなった。だが、それは私がいつかはやろうとしていたことなのだ。厚仁のように、私もまた自分の思いを貫いて生きようと思ったのだ。私は延べ世界50数か国を飛び回った。それは岩のような現実を素手で削り剥がすに似た日々だった。ボランティア活動をする人々に接していると、そこに厚仁を見ることができた。それが何よりの悦びだった。

 厚仁が射殺された場所は人家もない原野なのだが、人口約1000人の村ができた。その村を人々は『アツ村』と呼んでいる、と噂に聞いた。アツはカンボジアでの厚仁の呼び名。人々は厚仁を忘れずにいてくれたのだと思った。もっと驚いたのが、その村の行政上の正式名称がナカタアツヒト村ということを知ったのだ。このアツ村が壊滅の危機に瀕したことがある。洪水で村が呑み込まれてしまったのだ。私は「アツヒト村を救おう」と呼びかけ、集まった400万円を被災した人びとの食糧や衣服の足しにしてくれるように贈った。ところが、カンボジアの悲劇は人材がなかったことが原因、これからは何よりも教育が重要だ、ついてはこの400万円を学校建設に充てたい、というのである。こうして学校ができた。名前は、『ナカタアツヒト小学校』。厚仁の信じたもの、追い求めたものは残り続ける。厚仁がその短い生涯をかけて教えてくれたものだ。15年前、一時帰国しカンボジアに戻る厚仁に、私はこう言った。

「父さんもベストを尽くす。厚仁もベストを尽くせ」

 これは息子と私の約束なのだ。厚仁の短い生涯が、人間は崇高で信じるに足り、人生はベストを尽くすに足ることを教えてくれるのである。