きつい時、つらい時こそ前に出て!
10月になりました。いまだ30度を超える日が続いており、いまだ夏のような印象ですが、暦は歩みを止めておらず、今年も残り3カ月となりました。年初、今年の目標を立てたのがついこのあいだのように感じます。歳を取ると時が早く過ぎ去ると言いますが、正にそのことを実感する今日この頃です。
昨日紹介しました「若草祭」のポスターを頂戴しましたので、掲載いたします。楽しい企画が盛りだくさんです!若草園を身近に感じる良い機会です。足をお運びください。
「きつい時こそ前に出る」~ボクサー・坂本博之が交わした子供たちとの約束
真っ向勝負のファイトスタイルで、数多くの名勝負を繰り広げてきた元プロボクサーの坂本博之さん。現在は、東京・下町で自らが営むボクシングジムを拠点に、施設や里親のもとで暮らす子どもたちの“生き直し”を支援する活動を続けています―――。
施設では128人の子供たちが食堂に集まって一つのテレビを見るのですが、小学3年の時にたまたまボクシングをやっていたんです。僕はボクシングが好きだったわけではありません。きらびやかなガウンを背負ってチャンピオンベルトを巻いて大歓声の中、花道を通っていく姿に、単純に「ボクサーってかっこいいな。僕もこんなふうに大歓声を浴びてみたいな」と思いました。でも、ボクシングジムに行くにも月謝が必要です。当然そんな余裕はありません。じゃあ諦めたかといったら諦あきらめませんでした。「スポーツ選手になるにはスタミナをつけなくてはいけない」と思って、朝早く起きてグラウンドを走るようになりました。腕立て伏せをしたり、袋に石を詰めて鉄アレイみたいにして筋肉を鍛えたり、高校時代まではジムに行けない代わりにそんな鍛錬を重ねてきたんです。行動一つで夢は追いかけられる、これは皆平等だと話しましたが、それは僕自身の実感なんですね。
結局、僕たち兄弟は小学生の頃、施設を出て母親と共に上京します。本格的にジムに通い始めたのは高校を卒業してすぐの頃で、20歳でプロデビューを果たしました。そこから19連勝し少しずつ注目を集めるようにはなりましたが、僕の中でどうしても拭ぬぐいきれないものがありました。やはり故郷である福岡での思い出です。僕は福岡が大嫌いでした。あの大人たちと同じ空気は二度と吸いたくないと思っていました。しかし、日本チャンピオンが目前に迫ってきた時、ふとこう思ったんですね。「俺が夢を見続けるきっかけを与えてくれたのは、和白青松園だ。この施設がなかったらいまの俺はない」と。それで「施設はまだあるのだろうか。子供たちはいるのかな」という本当に軽い気持ちで密ひそかに訪ねてみることにしました。そうしたら庭で遊んでいた子供たちが鋭い目つきで僕を睨にらむんです。職員以外の大人を知らないんですね。
「俺も前、ここにおったんよ。2階の菊部屋で生活していた」と話すと親近感が湧いたのか、皆が集まってきて、当時の生活などいろいろなことを聞いてきました。「いまはプロボクサーなんだ」と話したら「手を見せて」「おなか触らせて」とちょっとした人気者になって、最後に「チャンピオンになったら、また帰ってくるけん」と言って別れたんです。その10か月後の1993年12月、僕は22歳で日本ライト級チャンピオンになったのですが、その時は堂々と施設の玄関から入って、園長先生にそのことを報告しました。子供たちも僕のことを覚えてくれていてチャンピオンベルトの周りはたちまち人だかりができました。その時、僕は皆に「このベルトを僕は世界のベルトに変える」と約束したんです。ハングリー精神にも繋がることですが、僕は自分自身との約束として、いつもこう言い聞かせてきました。
「いいか、坂本。おまえ、このリングの上で敗北を味わったら、あの惨みじめな生活に戻るよ。周囲からの暴力、ご飯も食べられない。あの時代に逆戻りしてしまう。戻りたくなかったら勝ち続けろ。勝ち続ける以外に道はない」
でも実際には世界は広いです。20戦目にして初めての敗北を味わいました。だけど、惨めな生活には戻りませんでした。その時、僕は自分が育った和白青松園の子供たちと文通を続けていたんです。子供たちからは「兄ちゃん、世界チャンピオンになると言ったやんか。頑張れ」「きつい時、つらい時こそ前に出て」という熱い手紙が何通も届きました。これらの言葉はすべて僕が子供たちに言ってきたことだったんです。自分が止まってしまったら大人として先輩として申し訳ないと、そこから再び走り始めました。
「きつい時こそ前に出るんだ。一歩がきつかったら半歩でもいい。それが無理なら摺すり足でもいい。それもできないと思ったらそこでじっと踏ん張って生きるんだ」。
子供たちに言っていたその言葉を僕は自分自身に言い聞かせていました。